!平成キング - THE独占サンデー - モー。たいへんでした - スポーツうるぐす - サルヂエ - ズームイン! - ヒット'76 - 人気力士大合戦! 第13回アメリカ横断ウルトラクイズでご活躍された田川憲治さんが、事故による後遺症で1年ほど闘病され、お亡くなりになったとのこと、平成元年に放送された第13回ウルトラクイズをそれこそテープが擦り切れるまで見まくっていたので、あの「トップ抜け富士通」の田川さんが? ョン (1件), キンクマハムスターのユーちゃんをお迎えすることに。, 情報通信政策に関する記事のまとめ(2020.11.9~2020.11.15), キンクマハムスターのミーちゃんが★になりました。, クラウドに関する記事のまとめ(2020.11.9~2020.11.14), コラム「遅い会社は利益が出ない」, 【連載報告】テレワークを進めることで社員にストレスを増やしていないか。ストレスの増加は生産性の減退につながる, ビジネスの変化は時間感覚の変化と同期する, 2021年の戦略的テクノロジのトップ・トレンド. データ解析 傾向と対策(1990年8月、日本テレビ放送網、, 絶対ニューヨークへ行きた〜いッ! !」であった, 他にも、罰ゲームを行う敗者に対して「何か言い残す事は!?」、どろんこクイズで間違えた解答者に対する「そんなわけねぇだろ! - ウェークアップ!ぷらす - DON! All Rights Reserved. - 朝6生ワイド - おはようYBC・けさの主張 - あッ!晴れテレビ - 山梨の朝 - あさチャン!! 頭脳王 - 24時間テレビ 「愛は地球を救う」, NFL Touchdown - 全日本プロレス中継 - 週刊文珍 - アメリカ横断ウルトラクイズ - 全国高等学校クイズ選手権 - とんねるずの生でダラダラいかせて!! - 日本テレビ番組対抗歌合戦!! 田中健一(第16回アメリカ横断ウルトラクイズ優勝) このほか、賞品と銘打たれてはいないものの、クイズの勝者に対するボーナス[128]として、あるいは敗者に対して記念品として[129]食事が振る舞われたり、クイズで使用した道具、ペナルティとして獲得した品物が譲渡されることがあった。, 優勝賞品は、当初はまともな賞品にする予定であった。第1回大会では、申込の時から「アメリカの土地2000坪」を賞品にすると告知していた(後に1226坪の1エーカーに変更)。ところが公正取引委員会の指導で、賞品は100万円相当を限度にしていたため(景品表示法の規定による当時の賞金商品の最高額。現在は廃止されたが、1997年より民放連の自主規制として一人200万円相当、5人チームならば1000万円相当を限度としている)、砂漠のど真ん中の土地しか買えなかったという。これがきっかけで、以降も風変わりな賞品を出すようになった。, これらとは別に、裏賞品として第11回開催時、歴代クイズ王にトロフィーが渡された。これは、第一次予選のエキシビションマッチでクイズ王サイドから提案されたもの。第一次予選時に各クイズ王にトロフィーが渡され、エキシビション不参加のクイズ王には郵送で贈られた。この年のクイズ王である稲川良夫にも優勝後渡された。全部で12個作られたが、残りの1つの行き先は不明(翌年の第12回優勝者・瀬間の手には渡っていないとのこと、その翌年以降のクイズ王に関しては不明)。, 番組では、メインテーマ曲を初めとする様々なBGMに、ハイセンスな洋楽や当時放映の洋画音楽を使用していた。しかしながら、メインテーマ曲のように複数の楽曲を繋ぎ合わせて使用していたり、大幅に長さを編集、一部だけを切り取って使用しているケースも多く、このような背景がこれらの楽曲の著作権の問題を複雑化させており、CS放送での特定の回の再放送やゲームなどでの再使用が困難となっている。, 日本テレビ系列のNNN、NNS各局では本番組の亜流ともいうべき大人数参加のクイズ大会が制作、放送されていた。ウルトラクイズを名乗り、各系列局のアナウンサーやタレントではなく福留や福澤が司会を担当するなど(例として、福井放送『福留功男のウルトラクイズ福井版』、テレビ岩手『福留功男のウルトラクイズ岩手版』など)、ルールやセット、BGMなどに関しても本家を踏襲したものとなっていた。, 1994年(平成6年)から2001年(平成13年)までに福島県岩瀬郡天栄村で行われた「ウルトラクイズinてんえい」は本格的なイベントとして反響を呼んだ。当初は村制施行40周年記念として開催され、その後も村おこしとして続いたが、日本テレビと福島中央テレビの協力を仰ぎ、司会こそ地元アナだが、ウルトラクイズ名物の泥んこ飛び込みクイズならぬ不正解だと粉まみれになるシロンコ飛び込みクイズや、ウルトラハットなどのセットに本物を使ったりと本家に近い形式になり、評判となった[132]。, 1983年(昭和58年)3月には、ラジオ番組としても制作されたことがある。日本テレビの系列局でもある青森放送が開局30周年記念番組として企画、同局のみで放送された。当初、青森放送から企画を打診され協力を要請された日本テレビは、番組タイトルも含めて難色を示したとされているが、最終的には実験として制作に全面的に協力、問題の提供や早押しハットなどの機材も貸し出し、福留やスタッフが青森に赴き、福留が司会を務めた。青森放送でも、当時ラジオ制作部に所属していた佐藤元伸(伊奈かっぺい)がディレクターを務め、地元にちなんだ問題の作成や台本づくりなどの放送作家的な仕事もこなした。併せて、当時アナウンサーだった大友寿郎がラジオ放送向けの実況(カゲの声)を務めている。収録は、青森市内の中央3丁目にあった青森県営体育館(現在は取り壊され、跡地には青森県男女共同参画センターと青森県子ども家庭支援センターの2つの機能を併せ持つ複合施設「アピオあおもり」が建っている)で行われた。第一次予選は4回に分けて行われ、のべ3,650名が参加した。このときの優勝賞品は、アメリカ西海岸旅行であった。, 多摩地域が東京都に編入されて100周年を記念して1993年(平成5年)に行われたイベント「TAMAらいふ21」の一環として、同年夏に自治体とのタイアップによる、ウルトラクイズ同様の形式のクイズ番組「80大学対抗クイズ選手権」が制作された。この模様は日本テレビで深夜にローカル放送された。司会は福澤が務め(この時の福澤のかけ声は「ジャストミート」ではなく「タマ王」だった)、ウルトラクイズのスタッフも多数参加した。大学生2人1組での参加による大会であった。収録は2日間にわたり、多摩の名所を巡った。優勝チームには「タマ王」の称号が与えられた。, 本番組からパロディ化されたものは大小合わせて数えきれないほどある。例えば番組そのもののパロディには『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』のほか、その他各局の番組にて「○○ウルトラクイズ」なるコーナーが登場したり、本番組とほぼ同様の小道具やBGM・テロップなどを用いたパロディも登場した。, このほか、「ニューヨークへ行きたいか!」の掛け声、「罰ゲーム」「勝ち抜け」「敗者復活戦」などの言葉、番組での、どろんこクイズやハットなどのアイデアやセットが後のテレビ・ラジオ番組で使用されたり、日本各地の大小イベント(オンラインゲームなどでも)で「ウルトラクイズ」と銘打った企画が行われるなど、『ウルトラクイズ』の存在がクイズ界にとどまることなく影響を与えている。フジテレビの『クイズ!ヘキサゴンII』においても、合宿スペシャルなどでウルトラクイズのような企画がある。, また乗り物で移動しながらクイズを行う番組として、週レギュラーのTBS『クイズ列車出発進行』や続く『日本縦断クイズ合戦』がある。不正解者が脱落するコンセプトも同じだった。, 2003年(平成15年)には、日テレの汐留移転にちなむミニイベント「シオドメ横断ウルトラクイズ」が開催された。, 2006年(平成18年)からは、スポンサーの広告コラボレーション企画として、突撃○×泥んこクイズバージョンのテレビCMが関東地区でのみ放映された[134]。出題役は『全国高等学校クイズ選手権』の3代目司会者である鈴木崇司。飛び込み役は各社共通は長州小力とバナナマン(2006年)、コージー冨田とスピードワゴン(2007年)、髭男爵とザブングル(2008年)、それ以外はスポンサー関係者などだった。スポンサー関係者が正解に、芸人が誤答(泥)に飛び込む趣向だった。また2008年版では、視聴者からの飛び込み役も公募していた。, 2010年には、ロフト渋谷店および、セガ(後のセガ・インタラクティブ)のアーケードゲーム『ネットワーク対戦クイズ Answer×Answer Live!』との当番組公認のコラボ企画「夏休み横断!ウルトラクイズ」を開催した。ロフト渋谷店では番組グッズの販売とともに、番組で使われた小道具・美術(早押しハットや早押しテーブルなど)が展示された。また『Answer×Answer』と日本テレビの携帯サイト『日テレクイズ』によるクイズ大会が8月16日より行われ、『Answer×Answer』決勝大会の成績優秀者2人と『日テレクイズ』の成績優秀者1名の計3名による「クイズ王決定!イベント」が、9月4日に汐留・日テレの公開スタジオ「テレビバ」で開催された。, 他局でも、本番組で初めて登場した「クイズ王」の称号をタイトルに使用した、『FNS1億2000万人のクイズ王決定戦』(フジテレビ)や『史上最強のクイズ王決定戦』(TBS)などの大型視聴者参加型クイズ番組が生まれた。, 本番組の反響は、世界各国でも紹介された。また、日本テレビの了解を得て同様の番組が日本国外で制作された。他国から企画を利用するクイズ番組が多かった1970年代-1980年代初めの日本では、珍しい例である。, 本番組は回数を重ねる毎に、大学クイズ研究会関係者の出場や活躍が増えていった。初期の優勝者や上位進出者にも、クイズサークル等に所属する「クイズ番組荒らし」と呼ばれるクイズマニアは多かったが、社会人が主流であり、同じクイズ修練者とはいえ年齢層に違いがあった[135]。また初期は本番組以外にも視聴者参加型クイズ番組が多く、その様々な「常連」が自然に本番組にも足を向けたため、挑戦者のバラエティも豊富だった。, しかし、本番組がクイズファンの人気を集める一方で、1980年代中盤から視聴者参加型クイズ番組は次第に減っていった。その結果、本番組に影響されてクイズファンになったという若い世代が増え、大学クイズ研究会も本番組に向けて対策を特化させていった。本番組のために旗揚げされた大学クイズ研究会も少なくなかった(「ウルトラクイズ愛好会」を名乗るサークルもあった)。中期には序盤のチェックポイントにおいて大学クイズ研究会対抗戦の図式を作り上げて場を盛り上げる演出[136] が行われたこともあった。, 特に私立の立命館大学[137]や国立の名古屋大学[138]からは成績優秀な挑戦者が多く出場しており、立命館大学からはOBを含めて5人の優勝者を輩出している一方、名古屋大学からは優勝者こそ出ていないものの、機内ペーパークイズ1位を1人輩出したほか、秋利美記雄らが番組後半まで勝ち残るなどの実績を残している。, 第一次予選の○×クイズでは集団で問題の検討・行動を行い、彼らの研究成果である「法則」(多くの問題は真偽を知らなくても、問題文のパターンなど外部要因から○×解答を導けるというもの)を駆使。これにより大学クイズ研究会のメンバーは、正解率も一般個人参加者より必然的に高くなり、結果的に彼らは第一次予選突破者の中でかなりの数を占めることとなった。定員に近くなるとクイズの問題検討よりも定員内に残るための作戦(多数の集団についていき、安全策をとる)を実行したり、さらには都合上第二次予選以降に参加できないメンバーがわざと目立つように誤答することで他の参加者を道連れにし、ライバルを減らすことを試みるといった戦略も行われていた[139]ことが日本テレビ側の反感を買っている(後述)。, 本番組に出場した大学クイズ研究会は、早押しクイズを特に得意としており(知識以上の反応速度で解答権を得るために、問題文の癖読みを研究するなど)一部の視聴者から人気を得た。一方、クイズ研究会の活躍が増えた時期から、後半のチェックポイントに正統派早押しクイズが多くなったこともあり、クイズ研究会関係者が後半まで勝ち残ってくると優勝が大方予測できてしまい、番組視聴の興味を削いだ点も指摘された。, 第13回の第一次予選の○×クイズで「自分の意思で決めてください」というアナウンスを無視して集団行動し、相手を罠に嵌める作戦も行う大学クイズ研究会への対策として、第14回以降の○×クイズでは4問目・7問目・9問目辺りに「クイズ研殺し」という問題を出すようにした。これは「問題集や百科事典などでは予習しようのない内容で、かつ素直に考えることで正解しやすく、○×クイズのパターンを研究している者は余計な深読みをして間違えるような問題」を指す。これを初めて採用した第14回では大学クイズ研究会の大量予選通過を阻止することに成功し、終盤まで勝ち残ったのはクイズ未経験者ばかりとなった。しかし、第15回以降は再び大学クイズ研究会の学生が準決勝や決勝に進出している。, 司会の福留は著書『葬らん!』で、「ウルトラクイズには社会人が出てきて喜怒哀楽をみせてほしい」という内容を書いているが、大学クイズ研究会の急速な台頭によって思惑とは違う方向に進んでいく。社会人が長旅で仕事や家庭などのしがらみを気にしながらそれでも旅する様を描くことが番組名物の一つであったが、まさにそれゆえ社会人は参加しにくく、番組が有名になるにつれ、1980年代中盤からは応募者の大半を学生が占め、チェックポイント通過者の多数も学生が占める結果になった。, 福留が第15回で司会を降板した理由は体力の限界だった[140]。しかし前掲『葬らん!』によると、他の理由として「人間味のある人達を中心に扱いたいのに、個性のない若者や偏ったクイズマニアばかりが勝ち残ることに嫌気がさしたため」もあるという。福留は、「視聴者に番組をハイジャックされたようなもの」と述懐しており[141]、クイズ研究会関係者による大激戦が繰り広げられた第13回大会後には「クイズ研究会同士の闘いになったことは、僕としては納得できてない。そうすると、他の一般の方々が尻込みするじゃないですか。『ここが限界かな』と自分自身で感じたから、僕は引退する」と語っている[135]。, “今世紀最後”で設けられた公式サイトでは、冗談半分とはいえ「クイズ研究会は書類審査で落ちるとトイレの裏で聞いた」などと日本テレビ側が公式サイトに書き、大学クイズ研究会側を不快にさせた。国内第2次予選や機内ペーパークイズにおける形式変更(ジャンケン→ピカイチ芸(一発芸)、400問三択→漢字書き取り)についても、没個性を淘汰するという名目でのクイズ研究会対策ではないのかとされた。特にピカイチ芸の導入に含め、福留の著書『ウルトラクイズ伝説』の「大学のクイズマニアを落とすのは簡単だ」については、大学クイズ研究会員などから非難を浴びた[142]。, ただし、日本テレビが1991年(平成3年)に発行したムック本『絶対ニューヨークへ行きた〜いッ! アメリカ横断ウルトラクイズ 攻略技術と対策問題』においては「クイズ同好会訪問!」と題した企画があり、企画冒頭では「この本の柱になっているのは『クイズ同好会』」と明記し、いくつかの大学クイズ研究会の紹介をしている。さらに同ムックの第11回 - 第13回の海外脱出者の討論会の席においては、インタビュアーが「この本の柱はクイズ『同好会』なんですが」と話題を振り、その後にクイズ研究会についての話が展開されている。また、番組の企画創設メンバーであり全17回全てのクイズ問題を担当したスタッフが、「むしろ感謝こそすれ、大切なクイズファンを嫌ったり、警戒したりなどありえない」とブログに表記しており、メインスタッフでも福留とは正反対の見方をしていたことが明らかとなった[143]。, 当初の企画は、1969年の東名高速道路の開通時に、沿線を移動しながらクイズを行うというものだった。この企画は陽の目を見なかったが、舞台をアメリカ大陸に変えることで実現した。, 日本テレビ開局25年企画候補の1つとして「世界をバスで横断・大クイズ大会」という企画があった。スタジオで200人の挑戦者にクイズを出し、勝ち残った人は香港へ行き、バス移動の道中でもクイズ、脱落者を出しながら行ける所まで行くというものであった。結局「ピラミッド再現計画」に決まったため開催されなかったが、これがウルトラクイズの原型となる[144]。, 内容および規模的に、日本テレビ職員だけでは出来ない企画だったが、第1回放送の前年、1976年7月4日に、日本テレビでアメリカ合衆国独立200年を記念して放送された番組『夢と冒険!アメリカ大横断』で、日本人の老若男女男女7人がキャンピングカーを利用しアメリカ大陸を横断するという内容を企画制作し、グループ海外移動のノウハウを持っていたテレビマンユニオンに声を掛け、同社の参加が決まったという[145]。, 本番組が最初に企画された際の仮タイトルは「ジャンボクイズ」[146] だった。しかし、1977年(昭和52年)当時、『木曜スペシャル』のスポンサーの一社だった全日空は「ジャンボジェット」ことボーイング747を保有しておらず、一方ライバルの日本航空は既に747を保有していた(全日空が747を導入したのは1979年(昭和54年))。「ライバル会社を連想させる名称は良くない」とのことで「ウルトラクイズ」に名称が変更されたという[147](当時は「航空憲法」こと45/47体制のため全日空は国際線を運航しておらず、第1回はパンアメリカン航空、第2回から第10回は、および"今世紀最後"ではコンチネンタル航空を利用[148]、実際に番組内で全日空を使うようになったのは、同社がグアム路線を運航し始めた1986年(昭和61年)の翌年、第11回大会以降である)。また、「ウルトラクイズ」のタイトルは、特撮番組「ウルトラマン」に由来するとしている[149]。しかし第二次予選で使われた成田エアポートレストハウスは放送当時は日本航空グループであった。, 『ジャンボクイズ』当時の「規約」では、既にその内容が紹介、チェックポイントも実際に行われた場所と全く同じであった[150]。しかし、次の様な相違点もあった。, なおこれらの内「複数の場所で予選を行う」というのは、後年『史上最大の敗者復活戦』で日の目を見る事になる。, 当初の計画では、日本テレビ側がアメリカ横断を、TBS[151]側が「ヨーロッパ横断ウルトラクイズ」としてヨーロッパ大陸横断を担当し、両方の優勝者がニューヨークで決勝を行う予定であった。しかし、TBSがこの企画を拒否したため、アメリカ横断のみの開催となった。, ウルトラクイズが始まった頃、ホノルルの空港の税関で「早押しハット」が不審尋問にかかってしまったことがあった。スタッフが身振り手振りで税関係官に説明するもなかなか通じず、電源を繋いで実演する事によって何とか通関した[152]。, 本番組におけるホテルや飛行機などの手配など、旅行部分のコーディネート業務は、番組開始から終了まで一貫して近畿日本ツーリストが担当していた。番組の全盛期には「ウルトラクイズの仕事がしたい」という理由で同社を志望し実際に入社する学生が多数存在したという[158]。, スタッフに支給される1日の食費手当は当時のアメリカの食費1食分くらいだったが、福留は「1年かかって覚える仕事を1か月で覚えるから、志願するスタッフも多い」と挑戦者に話をしていた。, スタッフはほとんど挑戦者と交流を持たないとされており、交際も禁じていた。これは、挑戦者に情が移ったりクイズの情報等のインサイダー情報が漏れたりすることを防ぐためや、スタッフ及び挑戦者のモラル向上のためであった。ただし、挑戦者が10名前後の時点で、司会の福留/福澤、主要スタッフ(萩原津年武など)と挑戦者の夕食会が設けられ、そこで初めて福留/福澤と挑戦者が一緒に食事をし、個人的な話もできた。これには挑戦者個々の性格を把握しておき、それをその後の番組演出に生かす目的もあったとされている[159]。なお、スタッフがホテルのゴミ箱に捨てたデータから機内ペーパークイズの順位が漏れたこともあった。, 決勝が終わると、ニューヨークの日本料理屋を借り切って盛大な打上げパーティが行われる。その際、頑張ったスタッフを表彰するイベントが第1回大会から行われており、選ばれたスタッフは嬉しさの余り、声を上げて泣きながら選ばれた事を喜ぶ姿も見られたという。, 挑戦者は第一次予選を通過すると後楽園球場・東京ドームの近くにある建物に集められ、通称「勝者弁当」を支給されて渡航説明会を受けた。その際大まかなクイズルート・予定などの概要を説明されるが、実際の行程は一部変更されることも珍しくなかった。また、グァムのクイズを通過した挑戦者は誓約書を書かされた(ただし強制ではなく任意)。, 挑戦者の宿泊費・交通費・食費といった旅費は日本テレビが負担した。挑戦者の数が10名前後の時点からはアルコール代なども負担してもらえた。失格後も成田(第1回は羽田)空港までの旅費と食費を負担してもらえたが、挑戦者のものよりランクが下がっていた。, 敗者はクイズが終わると、放送上では罰ゲーム後「東京直行」[160]として即強制送還という演出がされていたが、実際は必ずしもそうではなかった。日本方面の飛行機の日程の都合や現地の天候、各チェックポイントの周辺施設の警備上の問題等の理由で、実際には敗者がその地に一泊してから帰るというケースもあった。例えば、グァムまでの機内ペーパークイズで敗者になった場合、放送ではタラップ最後の一段でグアムの地を踏めずに機内に戻され日本へUターンという演出になっているが、実際にはそのままグァムで一泊する回もあった。また、ハワイでは敗者を乗せたバスに福留が乗り込み、「敗者の皆さんも番組を盛り上げてくれたので、特別にハワイの夜をプレゼントしましょう」と言い、勝者と共に敗者も同じホテルに一泊してから帰国したこともあった。, なお、敗者は失格地の宿泊所から空港までは残置されたスタッフが連れて行くが、それ以降乗継ぎなどがあった場合、もしくは途中で別の土地で一泊する場合にはチェックインや搭乗手続きなどを全て自分1人で行わなければならなかった(中継地に近畿日本ツーリストのオフィスがある場合は、現地スタッフが案内するケースもあった)。終盤や僻地で敗者になった場合、1日で日本に到着できるケースはほとんどなく(本番組放送時代は成田直行は今ほど多くはなかった)、2-3日かけて帰国[161]するケースもあった。, 第一次予選を突破したものの、都合により第二次予選以降の参加を辞退する挑戦者は毎回少なからず存在する。このため第一次予選で失格した者のうち、後半の問題まで勝ち残った若干名が補欠として予め選ばれ、第二次予選日までに辞退者が出た場合は繰上げで第二次予選挑戦者に登録された。例えば第10回大会では、最後の1席を3名で争い2名が敗者となったが、その2名は後日繰上げで勝ち抜け扱いとなり、両者ともアメリカ本土上陸を果たしている。第12回でもクイズ王・瀬間が繰上げで第二次予選へ進んでいる。第16回では第一次予選の途中、勝ち残り人数が絞られてきた段階で辞退者の確認が行われた[162]。辞退者の確認が行われる理由は、「クイズ参加者の自己都合による途中辞退や棄権は、健康上の理由など委員会が特に認める場合以外は絶対に認められません」(ウルトラクイズの進め方より)。」[163] の「ウルトラクイズ審査委員会」の参加規定によるものである。, 第一次予選を突破した挑戦者の中には、本土後半まで勝ち残り旅の途中で会社を解雇された挑戦者や、会社を退職して第二次予選に臨んだもののジャンケンで負け途方に暮れる挑戦者(第13回のジャンケン最後の敗者)もいた。社会人にとっては、勝ち抜けたことが逆に苦難となるケースもある。仕事の都合でそれ以上チェックポイントを勝ち進むのが困難となったり、会社から「これ以上帰ってこないなら席がなくなるぞ」と連絡を受け、無解答または故意の誤答をして失格した挑戦者もいた(大学生も単位不足や定期試験により故意に失格した挑戦者がいた。国際電話連想クイズでは、電話を受けた挑戦者の親族が、帰国させるために故意に正解を言わず失格させた例があったという[164])。このため、製作局側も勤務する会社の企業名を番組内で頻繁に出すようにし[165]、勝ち進むに連れて会社の宣伝になるように工夫し、仕事の都合を付けその挑戦者が休みを取りやすくなるように配慮した。, その一方で、同じ社会人でも自営業者や会社自体の経営者、家族が経営する会社に勤めていた挑戦者は、このような縛りが比較的少ないため優位にあった[166]。まとまった形での休暇が取りやすい公務員も優位で、上位に残りやすい傾向があった。第14回クイズ王・佐藤は郵便局職員(当時の郵便局職員は旧・郵政省に所属する公務員)、第15回クイズ王・能勢は埼玉県の地方公務員であった。民間企業の会社員で優勝したのは第11回・稲川が唯一である。, 第一次予選の○×クイズについて、福留は「番組の中では答えが○の問題が3回続き、次は×だろうと解答者が思うときにまた○の問題を出す。出題者が意地悪だから次も○だと思うところで×の問題を出す……というように、番組ではその場の駆け引きがあった。」と語っている[167]。つまり、挑戦者の心理を読み、解答が○×どちらになるかその都度問題を選択していたということである。, 小倉淳によると、特定の挑戦者に罰ゲームをやらせるのが演出上よいと考えた場合、その挑戦者を落とすため、各挑戦者の得意分野を考慮し、落としたい挑戦者が不利になるような問題順を考えていたという[168]。, 成田空港での第二次予選として行われていた3ポイント先取による勝ち抜けジャンケンが第10回記念大会において腕ズモウに替えられたが、翌年の第11回大会では勝ち抜けジャンケンに戻された。また、敗者が憂さ晴らしとしてミニコーナー的に行っていたものとして、徳光和夫がアメリカンフットボールのヘルメットとプロテクターを着用して、敗者となった参加者にピコピコハンマーで叩かせるというコーナーがあったが、徳光が参加者の強力な一撃によって軽度の脳震盪を起こし、収録への参加を急遽取り止め、病院に向かうといった一幕があった。, 第1回-第14回・今世紀最後・史上最大の敗者復活戦 福留功男1 / 第15回・第16回 福澤朗 / 史上最大の敗者復活戦関西地区予選 小林大作, 第1回-第11回・今世紀最後・史上最大の敗者復活戦 徳光和夫 / 第12回-第16回 渡辺正行, 第9回・第10回 日高直人 / 第11回 増田隆生 / 第12回-第14回 小倉淳 / 第14回 鈴木健, 第1回・第2回・第4回・第8回-第11回 徳光和夫 / 第3回・第6回 白岩裕之 / 第5回・第7回 小林完吾 / 第12回 永井美奈子, 第1回-第12回 高島忠夫・石川牧子2 / 第1回 徳光和夫3 / 第13回・第14回 (なし) / 第15回 小倉淳・永井美奈子 / 第16回 (なし) / 今世紀最後 伊東四朗・松本明子, 日本テレビ / 東京ドーム / 後楽園球場 / クイズ形式(バック・トゥ・ザ・フューチャークイズ) / 各大会の詳細 / コンピュータゲーム / クイズ王 / 罰ゲーム / 木曜スペシャル / ビッグサタデー / 夢と冒険!アメリカ大横断 / 人工衛星クイズ / 冒険家族クイズ2001 / ズームイン!!朝!